私の空間放浪癖ー空間を漂う視線をつなぐ無意識という意識。

 歩きながら見る。そして考えを巡らしたり、空想したりする。誰もが経験していることですが、私のなかで、このことは重要な意味を持つことであり、絵を描くうえでの源泉となるイメージなのです。
 この場合の歩くこと、見るということは、それを目的とせず、発見や感動を期待しないで、いつも何かを考えながら、ときには空想的な思考を楽しみつつ行うことを言います。観光地の美しい自然の中で、それを見る目的として歩くことも良いのですが、見るポイントが前もって決められていたり、感動して当然のような意識が先入観としてあることで、新鮮に感じられない場合があります。また見る対象が与えるインパクトが強過ぎると、感動はしても感覚が消費されるだけでそこから生まれてくるものは多くはないのです。結局、街をぶらぶら歩くことが最もいいわけです。
 目に映るあらゆるものが移動に伴い変化する様相、人の声や車の音、気温、湿度、天候による光の変化、自分の体調やその時の精神状態などに自分の感覚器官の全てが無意識のうちに反応している状態のなかで、私の意識はその場とは関係のないことを考えていたり、空想していたりを反復していくのです。そして突然見えたものに心を奪われることや、その場の持つ緊張感を実感する出来事が生じる。そこで僅かな時間、現実と対峠しながら、いずれ消えてしまうであろう記憶をとどめ、また歩き続けるのです。
 歩行という連続のなかで私の視線は、現実と非現実、無意識と意識の間を漂いながら、断片的な思考や記憶を残していく、そこには内と外への視線が浮遊している時空が存在しているのです。
 現実世界を歩くことから絵のなかの空間、絵画という虚構の世界を歩くことへ、実際には歩けないその場所をどう歩いていけばよいのだろうか。それには、歩くということを絵を見る視線の移動に置き換え、そして見るということを描かれた形象や、意味ずけられた世界の解読のためにだけ使うのではなく、視神経の反応として感覚することで、感じるという体験を、獲得できるはずです。
 では絵を描く場合において、歩くこと、見るということが、どう実践されていくのでしょうか。私は現在、絵を描くことで空間を歩き続けています。私の絵の制作は、地図としての下絵もない、ただ茫漠とひろがる真白な画面の上を、その空間の磁場に対し、振動する感覚の波動を動力とし、無意識のうちに、内なるカオスと現実を錯 させながら、まさに歩くように描いていくわけです。
 歩く速度では到底追いつけない状況のなかで、敢えて今、歩くという行動や、そこから生まれてくる概念、そして自己の表現を考えることが何を意味しているかは判らないが、私は歩かなければ見えない。また、たどり着けない場所があると確信しつつ、今も筆を杖にして、夢と現実の狭間を放浪しています。